この度、発達障がいやグレーゾーンまた凸凹と呼ばれている子供たちに焦点を合わせた勉強会を実施する運びとなりました。

共催:相模女子大学中学部高等部
後援:相模原市教育委員会
費用:一部有料

※下のお申込みフォームよりお申し込みください。

グレーゾーンが一番つらいのに…
いろいろな機関の調査によって数値はバラバラだけど、L.D. や A.D.H.D.、A.S.D. など周知されて
いるだけでも 10~15% くらい。疑わしかったり、WISC の結果で凸凹が大きくて普段の生活に
何らかの支障をきたしている子供たちを含めたら、感覚的には 25% を超える子供たちが生きづ
らさを感じていると推測されます。2022 年 1~2 月の文部科学省の調査結果では 8.8% の子供に
発達障がいの可能性があることが発表され、さらに「特別な支援が必要と判断」されている割合
は 28.7% でした。これらの数値が似通っていることからも子供たちの 4 人に 1 人 (1 クラスに約
10 人 ) が辛い思いをしており、辛い思いをしている子供たち 10 人のうち 6 人は「特別な支援が
必要と判断」されながら、曖昧な状態 ( グレーゾーン ) のままと考えられます。2022 年度は
延べ 420 名ほどの皆さまに勉強会へ出席していただき、ご理解を深めていただきました。
すがもキッズでは、2023 年度も引き続き学校生活で困っている子供たちに焦点を当てて研究会を
継続していきたいと思います。先生や保護者だけでなく、取り囲む一人でも多くの大人たちが
キチンと理解して接することが子供たちにとって辛さから解放することにもなります。
「発達障がいやグレーゾーン」に伴う日常生活の辛さは周りの理解や協力で乗り越えられます。
視力が弱ければ眼鏡をかければよく、聴力が弱ければ補聴器をつけることと同じように困っている
子供たちを支援することで自己肯定感を高め自立できるようになっていきます。そんな子供たちの
可能性を少しでも広げるためにも「すがもキッズ」の勉強会にぜひご参加ください。

【2023年度 学習困難児研究会 動画一覧】

【2023年5月27日】第1回学習困難児研究会 動画

【2023年6月24日】第2回学習困難児研究会 動画

【2023年7月15日】第3回学習困難児研究会 動画

【2023年8月5日】第4回学習困難児研究会 動画

【2023年9月21日】第5回学習困難児研究会 動画

【2023年10月28日】第6回学習困難児研究会 動画

【2023年11月25日】第7回学習困難児研究会 動画

【2023年12月9日】第8回学習困難児研究会 動画

【2024年1月27日】第9回学習困難児研究会 動画

【2022年度 学習困難児研究会 動画一覧】

【2022年5月28日】第1回学習困難児研究会 動画

【2022年6月25日】第2回学習困難児研究会 動画

【2022年7月30日】第3回学習困難児研究会 動画

【2022年8月27日】第4回学習困難児研究会 動画

【2022年9月24日】第5回学習困難児研究会 動画

【2022年10月22日】第6回学習困難児研究会 動画

【2022年11月26日】第7回学習困難児研究会 動画

【2022年12月10日】第8回学習困難児研究会 動画

【2023年1月28日】第9回学習困難児研究会 動画

発達障がいとの共生社会

発達障がいという言葉を耳にする機会があるが、多くの場合その症状や対策について周知されていない。発達障がいと一言で言ってもADHDやASDなど様々な分類があり、発達障がいから派生する二次的障害により日常生活に困難を与えていることも多数見られる。
パーソナリティ障がいなどが有名であるが、放置することで症状が悪化し過食嘔吐、リストカット、OD(薬の過剰摂取)、自殺行為などへと発展していく。APDなどの聴覚障がいもワーキングメモリの不足などから発生しているともいわれ、発達障がいをもつ子供には見られる傾向である。
現在はインクルーシブ教育が推奨され、実施されている学校もある。
インクルーシブ教育とは障害を持つ子供たちとそうでない子供たちを同じ環境下で育てることで、人間の多様性の尊重等を強化し、障がい者が精神的および身体的な能力等を可能な最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能にするという目的があるようだが、これには周囲の協力が欠かせない。
発達障がいを持つ子供は分かっているだけでも5〜6%と言われているので、実際にはもっと多くの子供が潜在的にいるかも知れない。400人の生徒が集まれば最低でも20〜30人の発達障がい児が含まれる計算になる。
この子供たちに対して学校や周りの大人はどのような援助をしているのだろう。
残念ながら放置されている状態では勉強も捗らず、提出物も期限を過ぎてしまうことが多いため、通信簿や生活態度の評価は最低限の1や2になってしまう。
特に県立高校の入試では通信簿の占める割合が大きいため、1や2では受験では困難を極めてしまう。
一生懸命に取り組んでいるのに、集中力が続かない、話が聞けない、忘れ物が続くなど場合には、子供の怠慢だけではなく発達障がいを疑う必要もある。
これらのサインを見逃して、誤った接し方を繰り返してしまえば二次的障害が発生して取り返せない事態に陥ってしまう可能性も考えられる。

WISC-Ⅳの結果は、発達障がいなどの診断と併用されることもある。

その検査結果は「言語理解・知覚推理・ワーキングメモリ・処理速度」に分類されて判定される。数値の開きによって診断されるが値に凸凹があるほど日常生活に支障が出る。

特にワーキングメモリは、短い時間に心の中で情報を保持し、同時に処理する能力のことを指します。会話や読み書き,計算などの基礎となるこの数値は、学校生活などにも影響が出やすい。メモリはコンピュータなどでも使われており、作業をするときの机の広さなどに例えられることが多い。例えば学校で先生からの指示があったとき、指示される内容が多岐に渡る場合には、同時に複数のことを処理しなければならず、広い机に資料を広げないと全体が見えなくなってしまう。

ワーキングメモリの数値が低い場合には、机が狭いために全体を見て処理することができず、まるで先生の話をキチンと聞いていなかったり、怠けているかのように勘違いされることも多々あるエピソードである。
保護者面談などで、担任の先生から指摘されたことなどはないだろうか。

これらの子供に対し、先生が理解した上で接することができれば良いのだが、必ずしもすべての先生が、子供たちの状態を把握しているとは限らないため、場合によっては子供に対して不利益な結果となるような評価をされてしまうことも多い。
しかしなから、通常の学校生活の中で教科担当の先生が特定の子供の状態について把握することは困難なので、保護者がキチンと子供の状態を理解し、学校側と情報共有することで子供に対する不利益な扱いは減少するものと考えられる。
では、発達障がいについてどのような対応をしていけば良いのか。
人間は年を重ねれば目が悪くなったり、耳が遠くなったりする。しかし、眼鏡や補聴器のサポートにより、普通の日常生活を送ることができる。
発達障がいも重度なものでなければ、同じように周りの人たちの適切なサポートがあれば、普通の日常生活を送ることが出来るではないだろうか。
代表的な有名人は、野球界ではイチロー氏や長嶋茂雄氏、経済界ではビル・ゲイツ氏やスティーブ.ジョブズ氏、芸能界ではハリウッド映画のウィル・スミス氏、トム・クルーズ氏、日本の音楽界では米津玄師氏、過去の偉人の中ではダヴィンチやエジソンなども発達障がいであったと言われている。
つまり、発達障がいとは個人の個性と捉えるて、社会と共生する方法を考えて実践していくことが大切ではないだろうか。
これは、あくまでも代表的な例の1つに過ぎないが、
子供の症状は実に様々であるから、我が子の症状に合わせたオリジナルのルールや方法を見つけることも大切である。
育ってきた環境や子供本来の性格により、十人十色であるからだ。また、親子間の愛情によっても症状は大きく異なることもある。家庭での愛情は発達障がいの影響を増大させたり、場合によっては症状を抑え込む強大な力さえ持っている。
なぜならば発達障がいを持たない子供でも、愛情不足により同じような症状が子供に現れることもあるからだ。
家庭での愛情は、親が思う以上に子供の性格や考え方に影響を与えている。愛情とは物を買い与えたり、厳しいしつけをしたり、たくさんの習い事をさせたりではなく、家族と一緒に安心して過ごす時間をどれだけ持てたか?家庭が子供にとって、どれほど安心して過ごせる場所なのか?が、一番大切になってくる。
みなさんの家庭ではどうだろう。
諸般の事情により、子供に不自由な生活はさせていないが、一緒に安心して過ごしてあげられない家庭は要注意となる。
では、どのように共存するべきなのかを具体的に考えてみよう。
例えば、ワーキングメモリの不足などにより記憶があいまいになってしまう子供は、なるべく学校の先生から指示された内容を連絡ノートなどにメモに取る習慣をつけて、自宅に帰ったら必ず家族がそのメモを確認することで忘れ物を減らすことができる。
また、指示する側もまとめて多くのことを伝えることはせず、伝える内容を簡条書きにしたり、一つひとつの指示に対して番号をつけることで、情報を混乱させずに整理することができる。
また、指示する側も言いっぱなしにするのではなく、何が伝わったかを確認することが大切である。教科の勉強だけでなく、これらの習慣を付けさせることも、「すがもキッズ」では大切な教育の一部であると考えている。