皆さんの周りのお友達は「バイリンガル」でしょうか。
巣鴨アドバンススクールポートランド校教室長の御殿谷です。
バイリンガルな人もいれば、そうでない人もいるかと思います。
自分はバイリンガルでなくても、子供にはバイリンガルになってもらいたい、と強く願う保護者も多いです。
自分がバイリンガルでないほど、子供にそれを強く願ってしまうものかもしれません。
アメリカに住んでいる日本人であれば、アメリカ在住という環境を生かして、子供にはバイリンガルになってもらいたい、と願うのは親として当然でしょう。
バイリンガルの定義とは
そもそも、どこまで第二言語を操れるようになれば、バイリンガルなのでしょうか。
第二言語で挨拶できればバイリンガル?
会話ができればバイリンガル?
本が読めればバイリンガル?
通訳レベルでバイリンガル?
実は、私たちが日頃使っている「バイリンガル」という言葉なのですが、その定義は人によって違うものです。
皆さんは、お子さんにどのレベルのバイリンガルを目指して欲しいですか。
もちろん、通訳レベルでしょうか?そこまで行かなくても、本を読めるところまで?
サッカーをやらせているお子さんには何を期待していますか?
プロになること?それとも健康のため?サッカーを楽しんで欲しいため?
ピアノをやらせているのは、ピアノのプロになって欲しいから?音楽を楽しんで欲しいから?
不思議なことに、言語教育になると、途端に期待値が上がってしまうもの。
魅力的な人はバイリンガル?
次に、周りの友達を想像してみてください。
昔からの友達もいれば、最近知り合った友達。子供を通して知り合った友達。
様々な友達がいるとは思いますが、本当に信頼できる友達は、どういう人でしょうか。
その人は日本語だけ喋る人でしょうか。それとも英語も日本語も操る人でしょうか。
もしその人がバイリンガルであれば、逆にその人がバイリンガルでない場合は、信頼できない人になりますか。
私の親友は、日本生まれ日本育ち、アメリカの大学でスペイン語の教授です。(もう訳がわからないですね)
例え、彼が3加国語を操っていなくても、親友です。
決して、トライリンガルだから友達ではないんですよね。
言語とはツール
言語教育になると途端にハードルが高くなり、でも言語は人を魅力的にするわけではありません。
言語とはツールでしかありません。
しかし、そのツールを操っている人は、魅力的に見えてしまうものです。
第二言語や第三言語を操ってコミュニケーションを取っている人を羨ましくなってしまいますよね。
しかし、本当に大事なことは、その見せかけの魅力ではなく、その人の人間性です。
私自身の大学院時代の話になりますが、外国人の生徒は皆バイリンガルやトリリンガルです。
皆が人間として魅力的かというと、意外とそうではないものです。
バイリンガルよりも、人間性。
「そんなことはわかっているよ」と言われてしまいそうですが。
このことを私たちは常に思い出す必要があります。
なぜなら当たり前なことほど、定期的に思い出す必要があるからです。
親孝行が大事。当たり前ですよね。。。でも私たちは実践できているでしょうか。
勉強が大事。当たり前ですよね。反論の余地はありません。でも私たちは実践できているでしょうか。
正しいことほど、意外と実践しにくいものです。
バイリンガルという見せかけの魅力にこだわりすぎて、お子さんの人間性を損なう原因を与えていないでしょうか。
言語が嫌いになったり、学習に対するモチベーションを下げていないでしょうか。
勘違いしないで欲しいのは、バイリンガルを目指すな、と言っているわけではありません。
バイリンガルを目指すことは素晴らしいことです。
目指す過程にて、多くのことを学べます。
ただその代償として、その子の学習意欲を下げているのであれば、バイリンガルを目指すことが本当に大事なことなのか今一度立ち止まって考える必要があります。
もちろん簡単な答えはありません。
各家庭で事情が違いますので、一つの答えが全ての家庭に当てはまるわけではありません。
ときにはバイリンガル教育を一度ストップすることも必要かもしれません。
ときには、ある程度強制的にでも、継続するべきかもしれません。
それは各家庭によって、状況によって、お子さんによって違ってきます。
そのためにも、相談できる誰かを見つけておくことって大事なんですよね。
巣鴨アドバンススクールの職員がその相談できる誰かになれていたら嬉しい限りです。
まとめ
バイリンガルとは一体何か。
バイリンガルになると、途端に期待値が上がってしまうこと。
しかし、人の魅力とは、バイリンガルであることと関係ないこと。
言語はあくまでもツールであること。
これらを認識した上で、バイリンガルを目指してもらえたら、と思います。