国語の成績をあげるための読書か、読書のための国語か

国語の成績を上げるためには、やっぱり読書がいいのでしょうか。

こんな質問をお母さんたちからよく受けます。

巣鴨アドバンススクールの教室長のみとのやです。

 

私も昔は「そうですね、読書は大事です」なんて回答をしていました。

でも、この質問、よく考えると目的と手段が逆なんですよね。

うん?どういうこと?って思ったと思うので、もう少し例を挙げていきます。

英語の成績を上げるためには英語の本を読むべきでしょうか?

この質問を聞いて違和感を持ちませんか?

手段と目的が逆になっているんですね。

本来は英語で本を読めるようになるために、英語を勉強しているんですよね。

成績を上げるために英語を勉強しているのではありません。

パスとかドリブルが上手くなるためには、サッカーをした方がいいでしょうか?

これならどうでしょうか。逆です!ってツッコミたくなりますよね。

パスやドリブルが上手くなるためにサッカーをするのではありません。

サッカーが上手くなるために、パスやドリブルの練習するんですよね。

楽譜を読めるようになるためにピアノの練習をした方がいいでしょうか?

これも逆ですよね。楽譜を読めるようになるのが目的ではありません。

ピアノをひくために楽譜を読むんですよね。

楽譜読めなくても、ピアノ弾ければ、それはそれでいいわけで。

ま、ピアニストではないので、詳しくはわかりませんが。

それでは、冒頭の質問に戻りましょう。

国語の成績を上げるためにやっぱり読書がいいのでしょうか。

もうお分かりいただけたでしょうか。目的と手段が逆なんですよね。

国語の成績を上げることが目的ではありません。国語の成績よりも読書の方が大事なのです。

読書で色々な力をつけることができる

読書は人生を豊かにします。

豊かさの一つに「能動的」が挙げられます。

能動的な人は、失敗もたくさんするでしょうが、それ以上に、多くを学び、様々な力をつけることができます。

この「能動性」の逆になってしまうのが「受動」です。

テレビを見るのも映画を見るのも、youtubeを見るのも。

これらはすべて「受動」です。

ぼーっとしていてもいいんです。

それがいいとか悪いではなく、何の苦労もせずにぼーっとしているだけでいいんですね。

この姿勢が当たり前になると、能動的に人生を歩む力が削がれていってしまう。

子どもたちがぼーっとテレビをみている顔と、読書をしている顔とどちらがより魅力的でしょうか。

読書をしている顔なんですよね。

それは、やはり人間は本来、能動的な状態がナチュラルなのだと思います。

だからこそ、読書という能動的な習慣が大事になってきます。

読書は、ぼーっとしていたら何も頭に入ってきません。

自らが想像し、その世界に入っていかなければいけないのです。

それはつまり能動性です。

能動性を身につける上で、読書というのは本当に素晴らしい時間の過ごし方なのです。

私自身、youtubeを見たりします。

テレビも見ます。それは楽だからなんですよね。

でも、そればかりだと、やがてつまらなくなります。

なぜなら、能動的に動いていた方が心から楽しいから。

充実した時を過ごせるから。

受動は楽ですが、能動は楽しい。

同じ「楽」という字なのですが、180度結果は違ってしまいます。

国語のための読書ではありません。

読書のための国語。

それは、読書が能動的に人生を歩める訓練にもなるからなのです。

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